ごかくの迷路


   
 一.合田(あいだ)

  終礼のチャイムが鳴っている。
  午後の講義が終わり、人の流れに従ってなんとなしに廊下に出る。そこかしこから溢れる特に意味のない応酬の中、口から大きな欠伸が出た。今日はこれ以降の予定がない。我ながらまったくいい御身分である。健全な大学生としてはこのまままっすぐ帰宅して自堕落を極めたいところだが、習慣とは恐ろしいもので、俺の足は自然と旧棟へと向かっていた。黙って帰ると後がこわい。
  同じ講義のメガネが俺に気づき、すれ違いざまににやけた面を向けてくる。名前は何といっただろうか、よく覚えていない。
「よっ! 合田。佐々木さんによろしくな〜」
  またか、と思う。あからさまに嫌な顔をすると、メガネは大げさに肩をすくめた。
「いいじゃん、付き合ってるんだから」
  違う。
「……自分で言え」
  足は止めないまま、投げやりに返す。それができれば苦労しねぇよー、と背後から聞こえる笑い声は無視して、木目の軋む階段をダラダラと上った。
  しょっちゅうモデルにスカウトされる美人でスタイルのいい佐々木は昔から非常にモテる。ツンとして自分の認めた人間しか傍に置かない不遜な態度のせいで、大学での奴の扱いはまるで女王様だ。しかし、それが単に奴の人見知りであることを俺は知っている。おかげで佐々木関連の伝言はほとんどが俺を通して行われる。
  親同士が親しいため、子供の頃から否応なしに腐れ縁を続けてはいるが、「俺と付き合っているらしい」という根も葉もない噂を佐々木が否定しないのは、実を言うとほんの少しは甘い意味を含んでいるからだ。ということは全くなく、その方が相手を断る時に便利で都合がいいからである。過去に本人から釘を刺されたので間違いない。体よく使われるのはあまり面白くない。体力を使って触れ回るほどムカついているわけでもないから黙ってるけど。
 数年前に建て増しされたばかりだという新棟に比べ、旧棟は講義や実験で使われる機会も人けも少ない。古びた木造建築っぷりを鑑みるに、元々は解体する予定だったのかもしれない。現在では一部の変わり者のゼミを残すのみで、空いた教室はほとんどが意欲のある学生たち、もとい非公式サークルのたまり場と化している。
 意欲のある学生たち、そう、たとえば佐々木のような。
 階段を最上階(屋上は除く)の三階まで上り、廊下を左に折れる。手前から二つ目に、本来の【資料室】の文字プレートの上に、ファンシーな用紙にカラフルなペンで【社交部】と貼られた扉がある。
 これも佐々木が書いたんだっけか。そんなことを考えながら扉を開けると、先に居た三人の女学生がこちらを向いた。「お疲れ様」「お疲れ様です〜」と俺を迎える二つの声色の間で、奥の机に頬杖をついた膨れ面が面白くなさそうに言った。
「遅かったじゃない」
「二人とも、お疲れっす。お前は知らんだろうが、六限は講義があるんだよ」
 そう答えると、佐々木は小さく「知ってるし」とつぶやいてそっぽを向いた。やれやれと微笑む清水と、俺と佐々木を交互に見ながらアワアワしている夢野さんに苦笑いして見せてから、俺はゆったりと部室の定位置に腰を下ろした。まったく、どうしてこんな奴がモテるんだか理解しがたい。
 社交部は、佐々木が立ち上げた非公式のサークルである。
と言っても、その実態は佐々木が気に入った人間を集めて放課後を過ごすだけという何の生産性もないもので、別に社会について論じ合っているわけでも、コミュニケーション能力を磨いているわけでも、ましてや社交ダンスに取り組んでいるわけでもない。元々、物置としてしか機能していなかった旧棟資料室に目を付けて、佐々木が勝手に名乗っているだけで、当然使用許可も貰っていない。今のところ教室は余っているし、特に害がある活動をしているわけでもないので、他の非公式サークル同様黙殺されている。
 メンバーは部長の佐々木。副部長は一見地味だがしっかり者の清水。平部員にふんわり夢見がちな夢野さんと、まだ今日は姿を見せていない柳、最後にこの俺。前者三名が女性部員で、後者二名が男性部員の、サークル活動における建前上の最低人数である計五名で活動している。
 当然のように俺は人数合わせのために無理矢理連れてこられたのだが、この五人で何ということもなく過ごす放課後は案外悪くない。
「今日はどこの講義だったの?」
「バヤセン」
「あーー、バヤセンかー……」
 よく選択が被っている清水はその一言で腑に落ちたのか、すらりとした体躯を抱えてため息をついた。言うと気にするので黙っているが、ここだけの話、清水は隠れ巨乳である。対照的に小柄で全体的にふっくらとした夢野さんが、小動物を思わせる特徴的な歩みでとてとて近づき、顔を覗き込んできた。初めはこの距離感に驚いたものの、パーソナルスペースが異様に狭いだけで他意はないらしい。                                                  

                                                




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