あの子の夢見る   


<笠原にわく>

   
  彼と出会ったのは、私がとてもつまらない日々を過ごす、つまらない大学生だった頃だ。
  その頃の私は、頭の中で「何か面白い事はないか」と呟いては、単位を取るために授業を受け、学食で昼食をとり、学校での用事がなくなれば家に帰ってテレビを見て少し笑い眠った。毎日がその繰り返しで、自ら行動しない、当たり前にやってくる事柄をこなしていく日々だった。
  ただ、頭の中の「面白い事はないか」を誰かに話しはなかった。それは恥ずかしい事だと思っていたからだ。そんな事を他人に言っても「自分で探しに行けよ、お前自身がよっぽどつまらない人間なんだな」などと思われてしまうだけで、自分にも相手にも損しかなった。
  だけど、魔が差した事があった。その日は、たまった生ごみを捨てなければ悪臭がし始めると珍しく早く起きた朝だった。ごみ捨て場に行くと、大家のおばあさんがいた。ゴミ捨て場の周りを掃き掃除しているらしかった。大家さんはアパートの近くに住んではいるが、家賃は銀行引き落としのため、契約時と引越しの時にしか顔を合わせた事がなかった。まだまばらにしか置かれていないごみ袋に自分のものを加え、大家さんに軽く会釈をした。彼女は柔和な雰囲気をかもしだしながら、おはようと言った。それで会話は終わりと思ったが、
「朝早くえらいわねえ」
  と声をかけられた。
「いえ、だいぶゴミを溜めてしまっていて、今日こそは捨てなければ思いまして」
  あらあら、と大家さんは笑う。
「それは困るわねえ」
  別に正直に言う必要なんかなかったと後悔したが、言ってしまったものはしょうがない。
「すみません。次からは毎週出すようにします」
「そうしてくれるとありがたいわね。ごみを溜めると部屋の空気が淀んでしまうから、身体にも悪いわよ」
  優しく言ってくれてはいるが、大家としては部屋が臭くなったり劣化するのは避けたいのは当然だ。居心地の悪さを感じつつ、悪い印象だけを与えて去るのもどうかと思い、私からも声をかけた。
「すみません。いつもお掃除して下さっているんですか」
「ごみの日はね。放っておくと、カラスがくるのよ。生ごみの日なんて、袋をつついて中身をぶちまけるのよ。カラスを追い払うための掃除よ」
「そうなんですか。やっかいですね。いつもありがとうございます」
「いいのよ。大家の仕事なんてそんなにたくさんある訳じゃないんだから」
  その言葉をそのまま受け取っていいのか、謙遜なのか分からず、私は礼儀的にもう一度お礼の言葉を言った。
「昔はね、もっと色々してたのよ。今は家賃の集金もなくて、引き落としでしょう。集金があった時は、学生さんの体調を聞いたりしてね。具合が悪そうだったら、相談にのったり、ご飯を持って行ってあげたり、親御さんと連絡をとったりもしてたのよ」
「そうなんですか」
  歳を取っているのに、大家さんの口は私よりもすべらかに動いた。
「今はそういう交流を嫌がる人が多いからねえ」
  確かにせっかく親元から離れて自由にしているのに、あれこれ聞かれて報告でもされたら煩わしい以外の言葉が見つからなかった。
「でも、大事なことですよね」
  当たり障りないことを返したが、この場をうまく切りあげる言葉が思いつかない。
「そうなのよ。あなたは? 最近体調を崩したりしてない?」
  案の定、会話は続いた。この話の流れでは、自分のことを聞かれるだろうと分かっていたが、実際に聞かれるとやっぱり面倒くささが襲ってきた。早く帰って二度寝でもしたいのに、「さようなら」の一言をうまく切りだせなかった。
「おかげ様で、不自由なく過ごしてます。体の不調もありません」
「それはよかったわ。悩んでいることもないのかしら」
「大丈夫です。生活に大きな波もありませんからね」
  あまりにも何もない事をアピールしたせいで逆に怪しまれたのか、大家さんはこちらを窺ってきた。 「ごめんなさいね。何回かしか会ったことがないお婆さんに悩みを聞かれたって困るわね」
  気を遣われたら、こちらも返答に困る。おせっかいなお婆さんなら、最後まで強引さを貫いて欲しかった。そうしたら、自分とは関係ないと突き放すことができた。
「いいえ、心配して下さるお気持ちだけで」
  私は引きつった笑顔を返した。
「何かあったら頼ってちょうだいね」
「いえ、大丈夫ですよ。本当に何も起こらない毎日なので、大家さんが心配することなんてないです」
  私が必死に何もない事を主張するのが滑稽に見えたのか、大家さんは苦笑した。
「それなら、大丈夫ね」
  その時の私は、大家さんの言葉に安心して「はい」と返事をした。ようやく居心地のわるさから解放されると思った。ちょうど、アパートの階段から別の住人がごみ袋を提げて、降りてくるのが見えては隠れた。帰り時だった。
「すみません、お先に失礼します」
「世間話に付き合わせてごめんなさいね」
  儀礼的に首を振って笑うと、大家さんがぽんぽんと私の腕を軽く叩いた。突然の接触に驚いたが、歳をとった人にありがちな、若い人間を見れば自分の子供や孫に見えて親しみを持ってしまうゆえの行動だと自分を落ちつけた。
「そんなに硬くならないで。肩の力を抜いて。きっとこれから色んな楽しい事があるわよ」
  せっかく落ちついた気持ちを逆なでするように、大家さんはたたみかけた。今度は笑う事もできず、ただ頬のあたりの肉を引きつらせ、頭を下げて、その場から去った。勢いよく走ったせいで、ゴミを捨てに来た住人の肩にぶつかり、更に体はこわばり、誰に向かって言っている訳でもなく謝りの言葉を呟きながら、自室に飛び込んだ。                                                

                                               




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