「なぜ、全ての音楽は旋律を持つのか。」


   
  あなたがたった一言、「愛していた」と言いさえすれば、私は何をも壊すことはしなかっただろう。あの時の消えた世界の中で。ペアール、クルチ。

一、 嘘つき

    全ての道徳観念は一週間もすれば崩壊する。嘘と埃に塗れた灼熱、インディア。10歳に満たない子供が浅黒い顔に砂塵を残して、額にたかるハエにさえ気づかず媚びへつらいを通り越した眼差しを観光客に向ける。
  いくらで売るのか。君がその手で作り上げたマーラーをいくらで。150ルピス。約300円にも満たない。西欧諸国民からすれば約150パウンドもしくは約160ユーロ。そんなもの、観光客からすれば自国のカフェでたった一杯の珈琲すら飲めない額だろうに、皆、値切ろうとするのだ。その子供が必死で使う流暢な英語をまるで当たり前のごとく、まるで試すかのように。
  君の必死さは、君がそこでそうやって生きているという必死さは、金に換算すれば莫大な価値になるだろうに。君はそのことを知らない。君はそれでも、十分な上乗せをして、通りすがる観光客たちに君ができる最大限の虚勢を張ってふっかけているつもりなのだ。旅行客たちは皆、「インド人は嘘つきだから」という。しかし一体そこで何の交渉をして何を値切る必要があるというのか。一体騙しているのはどちらか。本物の「嘘つき」はどちらか。

 隣ではやっつけの椅子の上でハシシを交換し合っているその父親と兄が、その君の姿を半分ぼやけた顔で眺めている。そして時々笑い合って君を怒鳴ったりちゃかしたりする。君の妹は売られたか、それとも少し美しければ幼いままでどこかの富豪に既に娶られたか。

 ぼうっとしていた。乾いた暑さの中で私の長い髪が昨晩のコンディショナーと汚染された水と混ざって束になって固まってしまっていた。バクテリアを含んだ砂塵が舞う。目が痛い。牛がそこら中を歩いていて、それを避けて通る車とトウクトウクという小さなリキシャのビープ音が絶えない。人も砂塵の中に埋まって見える。人々は口々に叫んでいる。
「マム、マム、グドシルク」
「オンリワン、グドシルバー。」

   何日間も身体を洗っていないあのインド人特有の臭いとハエが、幾度となく鼻孔をかするたび顔をしかめた。食べ残しなど一分ももたない。冷蔵庫と電子レンジと水洗トイレが高級品であるうえ、エアコンがついているいないに関わらず、一時間に何度となく停電になるのであるから、例えそれらが充実していたとしてもなんら変わりはない。店に売られている飲み水は、例えキャップの上に未開封を意味するビニールが張り付いていたとしても、あのカチカチという音が鳴るか確かめてから買わなければならない。そこら中で水道水やガンジス川の水をそのまま入れて売ってあるのだ。それも何日もこの灼熱の中に放り出されたものである。
「車の中に放置されたミネラルウォーターは、二酸化炭素を大量に含んでいるので危険ですから絶対に飲まないようにして下さい」なんて報道は、ここでは何かしら空恐ろしくずれている気がする。
 腸内バクテリア感染である通称「インド下痢」になったことのない人に出会った事はない。暑さと乾きのせいでいつのまにか皮膚のどこかが切れていて、それが化膿し熱をだした。その経験のない人にも出会った事がない。アルコールが容易く手に入ればそれを吹きかけてなんとか治す事ができそうなものの、事実宗教上酒を禁じられているようなものなのでどこにも見当たらずなんともしようがない。ホメオパシー療法やハーブを使った傷薬は、どうにも治りが遅くまた次々にできていく傷に追いつくはずもない。そうやっていると、なるほど酒がないので国民全体がハシシに依ることになる。ハシシを吸ったことのないインド長期滞在外国人に出会えたら奇跡に近いと言ってもいいだろう。今まで持っていた価値観や道徳観など、一週間と経たず崩れ落ちて、それらはただのもろい何かの拠り所であったことを思い知らされるのだ。ここには文字通り人間の全てがあった。金と肉欲と麻薬。
                                               

                                                




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