あい


   
  汗をかいたグラスの底のかたちに水の輪ができている。
 帰ろう、と席を立つ。まだ話し足りないという顔をした愛子が、駅まで歩いて帰ろうとぼくの袖を掴む。
 いやな予感がした。実はずっと、愛子について誤解していたのかもしれない、とぼくは思う。

 会話の流れで、ついこぼした話がまずかったのだろう。
 ごく最近失恋したばかりの女性に向けて、誰かの幸せを願い続けるなんて結構簡単だよ、など語るべきではなかった。きれいごとが愛子の癇に障ったのも仕方のないことだった。
 店を出て、夏の暑さが立ち上る道路を並んで歩く。昼日中の地獄のような湿度は少し落ち着いていたが、すぐに額に汗がうっすらと浮かんだのがわかった。
 愛子は冷房が寒いと着込んでいた上着を脱いで、タンクトップ姿になる。
「まだ結構暑いなあ」
「そうだね」
 並んで歩き出すと、すぐに愛子は続きを話せと言いたげな上目遣いを見せてよこした。
鈍感を装い無言で歩いていると、腕を軽く叩かれる。
「なあ、続きは」
「なにが」
「子どもの頃の、名前しか知らへん知り合いの小さい女の子の幸せがどうの、っていう話の続き」
 西の訛りが混じった愛子の言葉には小さなとげがあった。自業自得ではあるが、あまり付き合いたくはない。
 まず、愛子にも説明したぼくの場合について改めよう。
 ぼくが今も幸せを願い続ける誰かというのは、幼い頃隣家に住んでいたひとつ年下の四歳の女の子のことだ。早紀という名前だったそうだが、まだ舌足らずだったせいか、ぼく自身幼かったためか、アイと聞こえることが多かった。
 だから、彼女のことはアイと呼んでいる。
                                               

                                               




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